思想の核心

 

 解釈学

 歴史性
 人間は徹底的に歴史的な存在であり、われわれはどれほど客観性・科学性を装おうとも、過去を理解しテクストを解釈する際に自己の歴史性を中断することができない。解釈する者は了解に、そして、了解されるテクストの意味に、自身の存在をつねに関与させており、そうせざるをえない。過去から伝承されたテクストに、現代にしかじかの文化に生き特定の言語で考え話す者が自らを関与させるのであるから、過去の了解とは過去と現在との出会いであると言える。出会いは二つのものの出会いであるから、もし解釈する者が自身の歴史性や文化性を中断していわばどこの誰でもない透明人間のようになるなら、出会いは生じない、つまり、了解は不可能となる。
 逆説的なことに、歴史性は了解の条件なのである。

 参与
 歴史性が中断できないとすれば、テクストを了解する際に、伝統的な解釈学が教えるように、テクストが成立した時代や社会状況を現代の概念や先入見を一切持ち込まずに再構成したり、あるいは、時代を飛び越えて著者の状況に身を置き、著者の意図や心情を捉えたりする、ということは不可能となる。それでは、過去のテクストを理解するのは絶望的であるかというとそうではなく、われわれが知りそしてわれわれの関心を惹くテクストは、現代にまで伝承されてきたテクストであり、われわれは過去に戻らなくても、その意味に参与することができるし、それどころか、いつもすでに参与している。過去は現在にまで自らを伝え、現在に媒介され現在に影響Wirkungを与え現在をたえず変容させ未来へと向けて動かしている。過去の了解はそのような媒介の出来事の一部なのであり、これは科学的な歴史研究にも当てはまる。
 ガダマーにとって、了解は再構成や追体験ではなく、参与Teilnahmeなのである。

 著者の意図
 著者の意図はしばしばテクストの解釈の基準と見なされてきた。ガーダマーはしかし、この考えを受け容れない。歴史の経緯がしばしば人間の意図や計画に反して進むように、伝承されるテクストの意味も歴史の流れに規定されていて、著者の意図によって汲み尽くされない。第一に、どんなに独創的とされる著者も時代の子としてその時代の共通の言語で考えており、その人の思想のうちで彼自身のオリジナルな部分はわずかなのである。しかし、この共通の部分は自明であるがゆえに、意識されず、したがって、意図もされない。だから、著者の意図はテクストの意味の一面にすぎない。優れたテクストであればその内容はとても豊かであり、この豊かな意味は著者の意図によってだけでなく、伝承された各時代の読者たちの解釈によっても汲み尽くされない。優れた作品が時代を超えるのは、ある普遍的な真実を含んであるからではなく、その意味が豊かで一度では汲み尽くされないからである。
 第二に、著者の意図はある時代のある人間があるときある場所で意図した心理的な出来事であるから、現代とは関わらない、過去に閉じこめられた一回的なものである。そうだとすれば、意図においては事実起きたかどうかどうかは問題となっても、それが真実であるかどうかについては関心を呼ばない。これに反し、意図ではなく意味は、とくに優れたテクストに語られている内容は、著者とは別の時代に生きる読者に、世界や現実、人生について教えうる。真実な内容とは読者に訴えかけてきて再考や考え方の転換を迫る認識や考え方である。それゆえに、テクストの意味はそれ自身から時代の制約を超える普遍性を持ち、著者の意図には還元できない。

 先入見
 「先入見」とか、先入見が由来する「伝統」とかいった概念は、啓蒙主義の伝統を引き継ぐ現代では否定的な意味合いを持つ。正しく認識するためには先入見は排除しなければならないと言われる。しかし、先入見Vorurteilは先判断、つまり、本番の判断を準備するあらかじめの判断、のことであるから、本番の判断を誤って導くこともあり正しく導くこともあり、それ自体は悪いものではない。悪いのは特定の先入見を正しいと思いこんだ結果、意識されることも吟味されることもないままになることである。通常なら意識されない先入見が意識されるようになるのは、現代の枠には入りきれない過去の文化(そして、異文化)が働きかけてくるから、つまり、われわれがわれわれを超えるものに出会うからである。過去から伝承されたテクストはしばしば、その内容の真理性においてわれわれに訴えかけてくるが、ガーダマーにおいて真理とは、そのようにわれわれを圧倒し自己の有限性を認識させる認識の出来事を言う。
 先入見はその人が属す時代や文化に由来する。われわれは親や他の人びとから、世界をどう認識しどう考えるべきかについて教わって育ち、そのような知識はその人の深層に沈殿して、意識されないようになる。人間は自分が生きる時代や文化の言語で考え認識し、言語なしには思考も分節された認識も不可能なのであるから、文化や言語を排除してまったく独創的に考えたり一からすべてを考えることはできない。精神科学における認識もまたそうであって、それは伝承された伝統を解釈し直して未来の世代にさらに伝えていくだけである。

 適用
 われわれは普通、テクストの意味そのもの、客観的な意味をまず理解してから、つぎに、この理解された意味を自身の状況に適用したり、自身や現代に対する意義を論じたりすべきで、最初から適用すべきではないと考えている。最初から適用すれば、解釈は主観化されてしまうと思われている。「テクストの意味そのものの理解」という理想は、しかし、意味がどんな時代の誰にとっても同一であることを、つまり、解釈者がその歴史性を中断することを前提としている。だが、解釈する者はテクストの意味を自己と自己の状況に関係づけないではテクストを理解できない。適用の契機は、了解にとって本質的なものなのである。

 地平融合
 ただし、過去の意味をその他者性において十分に現させないうちにこれを現在に性急に同化してしまう危険をガーダマーはよく認識していて、テクストの意味をテクストが成立した文脈から理解しようとする歴史的意識の努力に一定の意義を認めている。テクストはそれが置かれている歴史的地平においてまず理解されるべきであるが、しかし、そのようにして再構成された(と見なされた)歴史的地平は、歴史家が属す現在の地平へと融合する。これが地平融合とよばれるものである。地平融合は「過去と現在の媒介」ということとは少し異なる概念であり、前者は、過去をそれ自身から理解しようとする歴史的意識の要求に対するガーダマーの譲歩を前提とした表現であることに注意しなければならない。

 解釈は常に新しい
 適用が必然的でありテクストそのものの意味の理解という理想が実現不可能であるなら、テクストの意味は解釈する者やその状況は解釈に依存することになる。解釈が解釈されるものと解釈する者との相互作用の結果であるなら、解釈されるテクストが同一であっても、解釈はテクストが伝承された共同体によって、さらには、解釈者個人によって異なることになる。だが、ここからガーダマーが解釈の基準を否定して解釈を解釈者の恣意に委ね、また、テクストの同一性を解体したと結論してよいであろうか。もし、解釈する人間が自身が背負う文化的背景を自由に取り替えることができるなら、たしかに、解釈は恣意的なものとなろう。しかし、実際には、解釈者は特定の歴史性や文化性を背負っていて、これを棄却したり中断したりすることはできない。テクストも歴史的で、解釈者も歴史的であれば、いわば2点を通る直線は一本しか引けないということなり、文化的背景を同じくする者どうしによる同一テクストの解釈は、似たようなところに定まる。もちろん、そこから新しい解釈が現れることはあるが、それは新しい時代の始まりを示しているすぎない。
 同じテクストの意味は異なる解釈の中にしか現れない。意味は同一であると同時に常に異なるという存在様式を持つ。テクストの解釈はこの存在様式とは別のところにあるのではなく、この存在様式の一部である。テクストの意味という豊かな可能性は、ある解釈者の許で、限定され実現される。過去は現在に語りかけて現在に現前するという出来事の中で了解は起きるのである。了解はガーダマーにおいてこのように解釈者の行為としてよりは、存在論的な出来事として記述されており、これもまた、解釈が解釈者の恣意に委ねられないことの理由である。
 テクストの意味そのものと思われているものは、たいていは、その時代の支配的な解釈であるにすぎない。ある重要な文学作品の解釈の歴史において、かりに作品の意味そのものが発見されれば、解釈の論争に完全に終止符が打たれるはずであるが、実際にはそんなことは起きていない。新しい時代になればまた新しい解釈が現れてふたたび解釈論争が起こるのが常である。ガーダマーは解釈の基準はテクストの内容であると述べている。これは了解の目的がテクストの内容にあることを述べたもので、一般に期待されるような「解釈の基準」を提供するものではない。テクストの解釈の超時代的で普遍的な基準などは存在しない。

 問いと答え
 過去は過去との断絶に対する歴史的意識にもかかわらず、依然としてわれわれにいつもすでに語りかけ働きかけている。これをガーダマーは影響史Wirkungsgeschichteと呼んだ。この影響史を意識することはできるが(影響史的意識)、それによって影響史の効力を無効にすることはできない。それは意識しまいとされまいと、働いている。過去に対する関心や歴史学的な過去の研究はこのような働きかけに動機づけられており、それらはこの働きかけに対するわれわれの意識的な応答である。過去が語りかけると、無意識に働いていたわれわれの先入見が意識されその妥当性が疑問に付され、今度は、われわれが過去に対して問いを向ける。過去がいつもすでに問うているのだとすれば、解釈には開始はないと言わなければならない。
 地平融合は問いと答えの弁証法としても記述される。ガーダマーは命題がそれ自身完結した意味を持つという論理学的な考えに批判的で、どんな文もある問いに対する答えであると見なす。同様にして、テクストはある問いに対する答えとして書かれた。歴史的意識はこの問いを再構成することのみを解釈者に求めるが、再構成された地平が現在の地平に融合せざるをえなかったように、再構成された問いは解釈者自身が問うことに統合されるのである。

 


芸術論

 

 

 

言語論

 対話は言語の本来の在り方である。解釈は了解の言語的側面である。

 



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文責巻田悦郎、© Etsuro Makita E-Mail: makita@ms.kuki.sut.ac.jp